南京感想文 Nanjing scribble

突然始まった南京の暮らしを気の向くままに紹介します。

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『愛のコリーダ』

昨夜6hの授業を終え、クタクタになって帰宅。くつろごうと思って、友人が貸してくれた日本のDVDを観たら、さらに疲れきってもうぐったり。その映画は『愛のコリーダ』(1976/大島渚)。疲れたけど観る価値はある映画だった。
 これは
1936年の阿部定事件を題材に男女の性愛を描いた作品。全編が露骨な性描写の連続で、男女の性器、接合部、性行為の様子がはっきり画面に映し出される。石田吉蔵と阿部定が出会い、ひたすら性行為を重ねながら、最後に定が吉蔵を絞め殺して性器を切り取るまでが描かれている。定の欲望をすべて受け入れ、全く拒まない吉蔵を描くことによって「やさしい男」を表現しようとしたのかもしれないが、どこかまだ男の視点だけで「定」がつくられているような印象を受けた。
 二人の性行為を見ると、吉蔵は定の欲望に引きずられるように挿入するだけである。女が執拗に男の肉体を享受しようとするシーンは多いが、男が女の肉体を探索しようとするシーンはみられない。首を絞められて意識が遠のくような表情を見せることはあっても、男が完全に女に陶酔しているような場面はない。「定」によって好色な男が性愛の泥沼に落ち、その果てに命も男の象徴も失うと言うコワーイ話の枠を超えていない。女を聖女/娼婦の二つに分類し、欲望の責任を娼婦にかぶせてお終いという単純な世界観に、「定」という非常に好色な女のイメージをそのまま利用したようなところがあるのは、日仏合作だからだろうか。定が吉蔵を殺して欲望を完結させるという結末のためにこのような描き方をしたのだとしても、定がほかならぬ吉蔵に異常なまでに溺れた要因がよく見えてこない。「性愛による快楽の追求の果ての殺人」というよりは、実際の事件でも定は「石田と別れたらもう会えないと思って殺した」のではなかったか。
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